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| 題名 |
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心の余裕 |
| 名前 |
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川越明子 |
| 国名 |
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ブルガリア |
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私はブルガリア北西部の博物館でボランティアとして働いている。欧州を訪れることも、外国に住むという経験も私にとっては初めてだ。派遣国がブルガリアと決まるまではヨーグルトとバラ、そして欧州の1国ということしか知らなかった。
ブルガリアに来て、カルチャーショックを受けることは少なかった。それでも最初は人々と知り合いになり、町を知り、住居を整え、と日々の生活のペースを作るのに必死である。そんな時、いつも私が1人で仕事をしているとある同僚が「こっちに来て休憩したら。」と声をかけてくれた。彼女の娘は子供の日にぬいぐるみをもらい、大喜びする無邪気な10歳の子。折り紙も大好きだ。ある日、その同僚の家に招かれ愕然(がくぜん)とした。地下の薄暗い小さなワンルーム。トイレも台所も暖房もない。あるのは水道、ベッドにテレビ、と必要最小限の家具だけだ。この町は真冬にはマイナス20度になることもあるという。暖房なしでどう寒さを凌(しの)ぐのか。自分によくしてくれる人が苦しい生活をしているのに、私にはそれに気付く余裕がなかったことを大いに悔やんだ。毎日昼食をとらない同僚の「ダイエット中なの。」という嘘を信じていた自分を悔やんだ。自分の生活だけで大変なはずの同僚には、私が日本という遠い国から1人で来て寂しいだろうと気遣う心の余裕があった。 ここにいると毎日「お金がない。何もない。」という言葉を誰からか耳にする。旧ソ連が解体し、東欧諸国は次々と社会主義から民主主義へと変わった。この波にうまく乗り切れていないのがブルガリアである。1人の稼ぎでは生活できず共稼ぎは当然、失業者や物乞いをする人も多い。ガイドブックには載っていないこのような暗い面も、そしてもちろん豊かな自然、世界遺産、おいしい果物や野菜、純粋な子供達、という素晴らしい面があることも両面伝えたい。そして人々はこのような中でもユーモアや隣人を気遣う心を忘れずにいるということも。 |
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| 題名 |
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私の「お母さん」のいる国 |
| 名前 |
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リーンデルツ・ノブエ |
| 国名 |
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ドイツ |
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| フランクフルトに来て、家探しの次に取り組まなければならなかったのはドイツ語習得だった。思ったよりも困難な道のりで、ABCの発音から1年以上たった今も未だに学校通いの毎日だ。好んで始めた習い事ではない上に、日々の宿題や、主に20代、時には10代の人もいるクラスでの授業は、30代後半の私にはかなりきつい。だが、場所が国際都市だけに、世界中の人達と知り合いになれるという楽しみもある。レベルが進むとメンバーも変わり、新しいコースの始まりには毎回自己紹介が行われる事になる。だんだん言葉が話せるようになるにつれ、皆、自己紹介だけでは物足りず、お国自慢もするようになる。そして、私にとって意外だったのは、どこの国の人でも、自分の国はどこよりも綺麗で、大変気候に恵まれた世界で最も魅力的な国であると信じて公言することだった。冬が凄く寒そうなウクライナの人も、暑すぎるのではと思うのだがウガンダの人も、犯罪率の高そうなコロンビアの人も、規制が厳しく自由な発言もままならないイランの人も皆、自分の国が一番素晴らしいと言ってはばからないのだ。なぜかというと、きっとそこに「お母さん」がいるから。「お母さん」と自国の言葉で発音した瞬間に広がる胸の奥の甘い感覚は世界共通であるらしい。故郷と母とを想うとき、形容詞の格変化や難解な文法の事は忘れ、皆一様に優しい目で彼方を見つめるのだ。「あなたの国は?」と聞かれ、遠い国から思い出す日本は特に美しい。とても素敵な所ですよと答えるが、そんな時、私の頭を過るのは彼らの想像する富士山や京都のお寺ではない。それが夏ならば、母と散歩したセミの鳴く道端や、みかん畑の向こうに見える青い海や、新聞紙にポタポタと汁をこぼして家族みんなで食べたスイカのことだ。そして、この柔らかで眩しく懐かしい記憶は私だけのもの。「だから私の母国が一番よ。」奥ゆかしい国の私は心の中でそう言っている。 |
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| 題名 |
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マザコン男たちの甘い甘い美辞麗句 |
| 名前 |
: |
福地麻美 |
| 国名 |
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イタリア |
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「ゴメン、今日はママを車で送る用事ができちゃったんだ。」
前日、映画に行こうと約束した職場の同僚の男性に言われたセリフである。しばし呆然(ぼうぜん)。ジャパニーズ・ガールとのデートはイタリアの偉大なるママを前にあっけなく消え失せてしまったのだ。
何も彼に限ったわけではない。イタリア人男性のマザコンぶりは世界的に有名な話である。大学入学や就職を機に1人暮らしを始めるなど早くから自活する若者たちがごく普通に存在する日本で育ったわたしには、ママお手製のサンドイッチを食べ、仕事中でも「もしもし、ママ?」と携帯電話に応答する彼らの姿は驚きだ。
それから驚いたことがもう1つ。イタリア人男性の女性への接し方は、日本人男性のそれと全く異なる。道端で知らない男の子に言われるのは「チャオ、ベッラ(やあ、かわい子ちゃん)」。朝、出勤して「今日もキレイだね」、ちょっと仕事を手伝ってあげれば「君がいて良かった」。これらの言葉を生まれた時から浴びて育っているイタリア人女性がイタリア人男性にとってかけがえのない、唯一無二のママに成長するのも合点がいく。わたしたち日本人女性にとっては照れてしまうような賛美の言葉も、彼女たちには日常の挨拶と同じだ。さすがにわたしも以前ほど困惑することはなくなったが、それでも耳元で「今日の髪型いいね」なんて囁(ささや)かれたりすればドキッとしてしまう。いい気分にもなる。しかしこれらはイタリア人男性たちにしてみれば、日常の挨拶なのだ。
カトリック本場のクリスマスは恋人と、なんて夢見たわたしがかつていた。イタリアではどだい無理な話である。「クリスマスは家族と」という諺(ことわざ)がある国だ。今年もイタリア人男性たちはママの手料理をお腹一杯食べるのであろう。そんな彼らの甘い言葉に酔いしれてしまうイタリア生活4年目のわたしである。イタリア人ママに勝とうなんて、まだまだ甘いのかな。 |
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| 題名 |
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友達が出来た! |
| 名前 |
: |
菅沼真澄 |
| 国名 |
: |
イタリア |
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今年の夏、私には新しい友達が出来た。それは偶然の再会と突然の来訪から始まった。
ある日、アパートの門を開けている私に、誰かが「シニョーラ(お嬢さん)?」と声をかけて来た。振り返ると、1カ月前にバス停で知り合ったお婆さんだった。「あの時お喋りをしたシニョーラでしょう?やっぱりそうね!私の息子が近くでバール(喫茶店)をやっているからいらっしゃい」と人懐こく言い、私の腕を取りながら歩き始めた。驚いている私にお構いなく色々と話しかけ、バールに着くと賑やかに話している彼女の友人達に「私の新しい友達なの。この近くに住んでいるのよ。イタリア語を一生懸命話す様子が可愛いの」と紹介した。皆、最初は不思議そうにしていたが、やがて少しずつ質問が始まり、帰る頃には「いつもここにいるから時間がある時にはいらっしゃい。色々教えてあげるわよ」と口々に言い、陽気な友人達は頬にキスをしてくれた。以来、辞書を片手に、時々、話の仲間に入れて貰っている。
ある夜突然「今、ケーキを焼いたの。焼き立てだから食べて!」と階下の女性が我家を訪れた。簡単な会話しか出来ない私に「やさしい単語を探して話すから、お友達になりましょう」と言った。これがきっかけで、私達は一緒に買物に行くようになった。後に彼女は「あなたは、日本から誰も知り合いのいないイタリアに来たのに、いつも笑顔で頑張っているから友達になりたかったの」と言った。
学生時代、語学が大の苦手だった私は、夫の海外赴任が決まった時、とても不安だった。しかし思いがけなく友達が出来た事によって、今、私の前には新しい世界が広がりつつある。そして会話に何よりも必要なのは、文法ではなくて、思っていることを相手に伝えようとする熱意だと痛感した時から、誰とでも気軽に話せるようになった。今では、外出が「緊張の連続」から楽しみに変わり、電話も「避けたい器具」から友情を深める道具に変わった。 |
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| 題名 |
: |
誕生日パーティー |
| 名前 |
: |
鈴木潤子(仮名) |
| 国名 |
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ドイツ |
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ドイツ人にとって誕生日はとても大切な日。いくつになっても毎年のパーティーはほとんど欠かさないし、節目の年は盛大にお祝い。ただここでは自分のパーティーは自分で企画・運営。もちろん費用も自分もち。なんで自分の誕生日に自分が一番働かなくちゃいけないのか、の疑問に私は今までろくに自分の誕生日を祝ってこなかった。 けれども今年は「やるか!」と思い立ち、友人達を見習い招待状から気合を入れて作成。部屋を丹念に掃除し、献立を考え、当日は朝から料理。せっかくだからと思い和洋折衷のメニュー。そして友人達が夜やって来る頃にはもうすでに半分疲れ果てていた私。でもみんなと話をしていくうちに少しずついつもと違う空気を感じ取る。今まで「日本じゃ誕生日、歓送迎会は周りがやってくれることがほとんどなんだよ」といい続けてきたので、もしかしたらみんなの頭の中にその言葉が残っていたのかもしれない。そしてその日本の習慣を抜け出し、ドイツの習慣に従って今年の誕生日パーティーを企画し、明らかに私の中にドイツ文化が入り込んだ瞬間をみんなが見てくれたのかなと思う。みんなの包みこむ様な笑顔がとても温かく、朝からの疲れなんてあっという間にふっ飛んでしまった。
帰り際親友にささやかれた。彼女には昼間用事があり一言電話をしていた。「あのね悪気はないんだけど、ドイツでは誕生日当日に自分から電話をかけると不幸になるって言われているから、来年から気をつけてね。誕生日に電話は受けるだけだよ」と。そしてさらに追い討ちをかけられる。「あとね、あそこにある日本から送られてきたプレゼント、いつ開けたの?」と聞かれ、3日前と正直に言うと「えー!!」とものすごい叫び声。「プレゼントを誕生日前に開けるとよくないことが起こるっていわれているのよ。」
「不幸」だらけで始まった幸せな私の新しいドイツでの1年。まだまだドイツ生活における修行が足りないようです。
*本作品の筆者ご氏名はご本人の希望により仮名とさせていただきます。 |
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| 題名 |
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親切には御用心?! |
| 名前 |
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平田美咲 |
| 国名 |
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イラン |
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イランでの主な交通手段の1つである、タクシー。私にとってはペルシャ語のレッスンの場でもある。
運転手とのやりとりはいつもこんな感じ。
「ペルシャ語は分かるの?」「ほんの少し。」「上手だね。(お世辞)」「またそんなー。」と、ここで一気に打ち解けたような感じがするが、そんな楽しい雰囲気をかき消すのが、最後の料金交渉だ。さっきまでのフレンドリーな会話が嘘のように、高めの金額をふっかけてくる。そして私も牙(きば)を出して応戦する。交渉を終えた後には、「これがペルシャ商人か。」と感心するやら、疲れるやら。経験からすると、おしゃべりな運転手ほど、料金をふっかけてくるようだ。
ある日、またおしゃべりな運転手のタクシーに乗ってしまった。彼は来日経験のあるイラン人。日本語での会話はいつもより弾んだが、最後まで油断大敵!と警戒しつつ、目的地まで。車が止まり、「いくら?」と尋ねると、「いりません。あなたは私のゲストです。日本ではたくさんの人にお世話になりましたから。」と。かなり恐縮したものの、そんな彼の誠意を大切にしたいと思った私は、その言葉に従うことにした。
そして後日、このことを他の日本人に報告すると、皆に「3回『いりません。』って言われた?」と聞かれてびっくり。どうやらこの国では、「隣人、旅行者、お客に親切に」という文化があるが、儀礼的な場合もあるので、3回言われるまでは本気にしないという。
どう記憶をたどっても2回までしか言われなかった私は、今度あの運転手に会ったら2倍の料金を払おうと思う。しかし、おせっかいなほどに親切なイランの人たち。そんな彼らとの生活は、あの運転手の言葉が本心だったと今でも私に思わせる。 |
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| 題名 |
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音楽の花 |
| 名前 |
: |
戸谷花菜 |
| 国名 |
: |
ドイツ |
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「ブラボー!」客席の後方からあがった歓声が演奏を終え放心状態の私の耳に飛び込んできた。ドイツ青少年音楽コンクール全国大会、バイオリンのソロ部門でのことだ。
舞台を降りて見知らぬ人々から温かい言葉をかけてもらっていると、同じハンブルク代表の2人の男の子が駆け寄ってきた。
「良かったよ。最高だった。」そう言って2人はぎゅっと私を抱きしめた。あの歓声をあげてくれたのは彼らだったのだ。美形の2人に抱きしめられ胸がドキドキすると同時に私は少し戸惑いを感じた。本来ライバルであるはずの彼らの表情には嫉妬のかけらも見られない。心から賞賛の言葉を伝えてくれている。才能豊かな彼らのことを、心の片隅でライバル視していた自分が恥ずかしかった。ドイツ人は個人主義だと良く言われるが、決して利己的な訳ではない。他人に無関心なのではなく、それぞれが自分の道を自信を持って歩んでいるから、周りと比べて卑屈になったり妬んだりすることもないのだろう。彼らの言葉を聞きながら、私は3年前まだドイツに来て間もない頃、同じコンクールに出場した時の事を思い出していた。日本での厳しい競争に揉まれ、歌を忘れたカナリヤのように音楽を奏でる喜びをすっかり忘れてしまっていた頃の事だ。そんな時このコンクールに出て、誰もが例外なく心から楽しそうに演奏する姿に触れ、強い衝撃を受けた。ミスなど全く恐れず、1人1人が自分だけの色を持ち、まるで野に咲き誇る花々の様に自然体。それに比べ私の音楽は、見かけは精巧に出来た造花の様なものだった。音楽とは競争するものではなく、楽しむもの、自分を表現するための最高の手段、それに気付いたあの時が私の出発点だった。
あれから3年、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれ、私の造花にも少しずつ生命が宿ってきた。とは言え、本物の花を咲かせるまでには、まだまだ道のりは遠い。それでも私は自分の信じる道を自信を持って歩んで行きたい。 |
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