| パリの西郊のサンジェルマン・アン・レ−市は緑豊かな丘陵の街である。私がその日信号待ちをしていたのは、この街で一番低い平地にある交差点だった。ギアをニュ−トラルに入れ、ブレ−キの足を緩めホッとしていたのも束の間、「ドン」、いきなり後ろから追突された。私は不満を顕{あらわ}にして車を降り、後続車のマダムに、「何をしてるんですか!」と怒った。彼女は慌てもせず降りてきて、両車を見較べながら、「大した事ないわ、心配しないで。」と逆に親切顔。ぶつかっておいて、これである。半ば呆れて、「だけど気をつけて下さい!!」と私はきつく言い放って車に乗った。
数日後、私は偶然、同じ交差点で、同じ様に信号待ちをしていた。ニュ−トラルを確かめ、ブレ−キの足を緩めた途端、私の顔から血の気が引いた。静止している筈の私の車がゆるゆるとバックしているではないか。慌ててサイドを引き、既(すんで)の所で後ろの車にぶつからずに済んだが、あの時のマダムの、「心配しないで。」の意味がようやくわかり、顔から火の出る思いだった。平地の様に見えたその場所は、実は僅かに上り坂で、ぶつかったのは私の方だったのだ。
自分の非礼を反省しながらも、なぜ彼女は私を否定しなかったのだろうと考えた。そして今更ながらにフランス人のある特長を思い出したのだった。それは、この国の人々は明らかに間違っている人にでも、正当性を主張する権利があり、ともかくはその理論に耳を傾けようとする、というものだ。その根底には、人間は基本的には悪気はない、という寛大な精神と、理論による説得力を重視する、という国民性があるのだと思う。多くの人に迷惑をかけながら結局は国民の支持を得る悪名高きメトロ等のストにもこうした背景があるのだ。しかし在仏七年、随分慣れたつもりだが、“悪ければすぐ謝った方が気もラク”{ラクの上に・・}と考えてしまう日本人的感覚は、たぶん私から消え去ることはないだろう、と思うのである。
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