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| 題名 |
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息子からの贈り物 |
| 名前 |
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高橋 麻美子 |
| 国名 |
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イギリス |
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『あなたがHAPPYなほうで』
そう、ミッドワイフ(MW・助産婦)に言われ、一旦病院を出て帰宅することにした。このとき陣痛感覚は5分。「OK。じゃあまたあとで」とMWに言って病院を出ようとする私に、付き添っていた母は顔色を変え、「なっ、なにいってるの? どうしてこの状況で帰るのよ!」と半ばありえないといった表情だ。が、実はこのとき、まだ主人が出張先のドイツからもどってきておらず、この先出産までに時間がかかるだろうなと、なんとなく思っていた。だから、家で待つほうがリラックスできると判断し、「病院で待ってもいいし、自宅に帰ってもいいし、あなたがハッピーなほうにしてくださいね」というMWの言葉を受けて、私は自宅に戻った。
結局その2時間後に破水。再び病院へ。冒頭のMWに「そうよ、その調子!あなたはすごく上手よ!!」と励まされながら、おだててその気にさせる誘導戦術にまんまとのせられ出産は順調に進み、2007年6月2日午前11時35分。水中で無事、長男が誕生した。
イギリスに来て1年半。
私はイギリスが嫌いだった。何をするにも日本で10できるところが1しかできない生活の諸々。。店員や交通機関の無責任なルーズさにもうんざりすることがしばしば。
「日本のようになんでできないの?!」と腹を立ててばかりいた。
だから、そんな国で自らの命を全てあずける“出産”をするという選択をするには相当迷った。
初めての出産―しかも異国で。ということで当初は相当な不安があった。
英国の出産はMW主導である。日本のシステムとは全く違う諸々の対応に、本当に大丈夫だろうか??と不安はなかなか消えなかったが、病院に通い、話し合ううちにその印象は変わっていった。「妊娠は病気じゃないからハッピーであれば自然が一番」という考えが根底にある。さらに“産ませてもらう”のではなく、“自ら産む”という姿勢を最大限にバックアップしますよという病院の方針には、共感と安心感さえ覚えていったものだった。
“あなたがHAPPYなほうで”という言葉は、一見無責任な対応にもとれる。が、そこには自己を最大限に尊重しようとする姿勢がある。だから実はどんな手厚い対応よりも深い愛があるんじゃないか・・・。出産を終えた今、そう感じると同時に、イギリスで出産できてよかったと、心から思う。日本で「〜すべき」という枠にとらわれがちな中で生きてきた私は、いつの間にか受身の姿勢になってしまっていたのかもしれない。だからロンドンでの生活で起こるトラブルも全て “〜のせい”と不満ばかりだったのだろう。出産を通じて私のイギリスへの見方も変えられた。見方が変わるとイヤよイヤよも好き。になってくるから不思議だ。
そんな思わぬ気付きを教えてくれたロンドン生まれのわが息子へも、きっと私はこういうんだろうな。「あなたがハッピーなほうでやってごらん」と 。。。 |
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| 題名 |
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忘れられない一杯のカプチーノ |
| 名前 |
: |
椙下 啓子 |
| 国名 |
: |
イタリア |
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あれは今から丁度五年前、観光ガイドとして働いていた時の事です。
七月も半ばだというのに、朝から涼しい風が吹き、ジャケットが要るかとも思ったのですが、まさか・・・と、軽い気持ちで半袖姿で家を出て、バスに乗り電車に乗継いでローマ市内迄三十分足らずの処で、もう寒くて半袖で出てきた事を後悔したものの、戻るには遠いしと、仕方なく駅の近くの開店準備をしているお店に飛び込んで、たった一枚残った春の名残りのカーディガンを買って仕事に向いました。
バチカン博物館の観光案内を終え、グループをバスに送った後、余りの寒さに何か温かい飲物でもと思い、近くのバールに入りました。「こんにちわ」「ハイ、いらっしゃい」「カプチーノとコルネットを・・・あ、その前にトイレを借りてもよろしいでしょうか」「どうぞ、右の奥です」その後、カウンターに戻ると、バールの奥さんが「カプチーノはできていますよ。コルネットはどれがいいですか」「あ、そのシンプルなのを下さい」と、お決まりの会話の後、温かいカプチーノと出来たてのコルネットを堪能した私は、「ごちそうさま。さようなら」と店を出て、地下鉄の駅に向いました。そして駅の構内に入って切符を買おうと財布を出した途端、「エッ嘘!! 私、代金を払わずに出てきてしまった」。道理で店を出る時、入った時とは違って無愛想な感じがしたなとは思ったものの、まさか自分が無銭飲食をして出て来たとは夢にも思っていなかったので、無愛想と思った事への罪悪感とうしろから「貴女、お金を払ってないわよ」と声を掛けれるのではないかという恥かしさ一杯で大急ぎでバールに戻ると、血相を変えて戻ってきた私をびっくり顔で見る奥さんに「ゴメンナサイ!! 私、代金を払わずに行ってしまって・・・」と言うと、「知ってます」という返事。
「どうして言ってくださらなかったんですか」と言うと、首をすくめて「明日でも明後日でも近くを通った時でもよかったのに・・・」と、初めて入った店の人に言われて、もし、これが日本だったら店の外に出る前に既に呼び止められていただろうし、きっと計画犯のような扱いを受けていたんではないかとさえも思えて、何とおおらかな人なんだろうと、思わず胸まで熱くなりました。毎日ギスギスした人間関係の中で、また、たった今、行列に横入りする人達と戦いながら仕事を終えたばかりの私に、こんなにも人間味に満ちた心を見せてくれたイタリア人に遭遇する事が出来て、本当に嬉しく思いました。きっとキリスト教の総本山のお膝元、総ての者に両手を広げて、あらゆるものを受け入れるという精神の表れなのでしょうか。在伊十九年にして、今だに忘れられないカプチーノの味です。 |
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| 題名 |
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マイ ティーチャー イズ 日本人 |
| 名前 |
: |
武本 麻衣子 |
| 国名 |
: |
イギリス |
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海外に十年以上も住んでいると自分は何人(なにじん)なのか判らなくなる時があります。イギリスに住み現地の人と共に働いているからといって、イギリス人という訳ではない。かといって日本に住む日本人との考えの違いにも戸惑いを感じる。自分の存在を否定されたように感じることもありました。
日本でインターナショナルスクールを卒業し、イギリスの大学で小学校教師の資格を取りロンドンの現地校に勤めて7年。教師になった当初から「イギリスで教師をしている」と言うと必ず英国人からも日本人からも聞かれた質問がありました|「何を教えているの?日本語の先生?」
日本人が現地校の教師でいることがこんなに驚かれるとは思っていませんでした。そしてこの質問を受けるのがだんだん億劫になっていきました。インターナショナルスクールで先生に言われたことを思い出したからです。「いつかふと思うでしょう。自分は何人(なにじん)なんだろう? と。」
「日本人だからイギリスの教育を理解していない」という批判をされないために7年間、一生懸命働きました。同僚の先生達は「あなたがいることでどれだけ日本から来る生徒達や親が心強いか判る?」と勇気づけてくれるものの、イギリス人以外に数カ国の生徒がいるマルチカルチャーなうちの学校でいつ「うちの子はイギリス人の先生のクラスに入れたかった。」と言われるか、不安でした。だから「学校では絶対日本語を話さない」と決めていました。
そんなある日、一年生(5|6歳)の生徒達と円になって名前ゲームをしていた時のことです。日本から転校してきたばかりのMちゃんの番になりました。イギリスに来て数週間、英語がまだ話せない彼女は緊張して自分の名前をいうことが出来ません。すると黙ってしまった彼女を見てインド人のSが「名前を言えばいいんだよ」と言いました。「言いたくない?」と心配そうに顔をのぞきこむドイツ人のE。「先生!日本語で話しかけてあげてよ。そうしたら彼女は喋るよ!」と29人の生徒達は一斉に私の顔を見上げました。幼い子供達に学んだ一瞬でした。「そうか、ひいきするんじゃなく、彼等のクラスメートを助ける為に日本語を使うことが出来るんだ」と…。
私はずっと「イギリス人の先生のように見て欲しい」と考えていました。でも日本のお話を英語で読んでいると「日本語で読んで!」と頼んでくる生徒達、折り紙や習字を大喜びで美術の時間に取り入れる同僚達に支えられ気がついたのです。
「私は日本人の先生のままでいいんだ」と。そしてなによりも私のことを「僕達の話せない国の言葉を話せるクールな先生」として接してくれている生徒達のように、国籍、人種、言語にまどわされずに人を一個人として見ることが出来れば、アイデンティティーに悩むことはない|自分が何人(なにじん)かなんて悩まなくてもいい|と確信したのです。 |
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| 題名 |
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壁の中から幸せ探し |
| 名前 |
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田名部 あずさ |
| 国名 |
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イタリア |
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イタリア、フィレンツェの少年刑務所で演劇の講師をして4年が過ぎる。イタリアは移民人口が多く、フィレンツェの刑務所でも、99パーセントが外国人で多くは、モロッコ人、アルバニア人、ルーマニア人、ジプシーなどである。なので、文化も違えば、言語も、考え方も違う。また、育った環境も日本とはかなり異なる。こんな閉ざされた異風な空間で、私は、少年院の子達とすばらしい出会いをし、たくさんの勇気をもらった。
ある日、少年たちに演劇公演の題材探しの為に、詩を書いてもらった。あるモロッコ人の子が、こんな言葉を書いた。「幸せは、誰もが持てるもの。だから、探せばいいだけさ。」この子はあと5年も刑務所にいなければいけないのだ。この子の右足の甲には、「僕、疲れた。」左足の甲には「僕も・・・」とアラビア語の刺青が刻まれていた。おそらく、刑務所の中で刻んだのだろう。自分の足が疲れたと言っている・・・右足も左足も。こんな状況から、どうしてこんな言葉がでてくるのかが不思議だった。私の体では吸収しきれないほどの葛藤、苦悩を乗り越えて、この言葉が生まれてきたのだろう。しかも、20歳に満たない少年から。少年たちは、この限られた小さな空間の中から、小さな幸せ探しをしている。どうにか、自分の将来を立て直すために、はかり知れない葛藤と苦しみながら。今でもこの言葉は、私のイタリア生活の節々にふっとよぎっては、大きな勇気を与えてくれる。イタリアで、私と同じ外国人である、モロッコ人の少年が語った言葉。だからこそ、ずしんときた。
彼は、今年の4月フィレンツェからミラノの少年刑務所へ移った。初夏のある日、こんな葉書が届いた。「やあ、みんな元気ですか?僕はミラノの刑務所で舞台装置修復コースをうけているよ。みんなによろしくね。みんなのルチンニョロより」どっと襲ってきた感動でしばらく頭が真っ白になった。ルチンニョロとは、去年の12月に彼も参加したピノキオの公演で彼がやった役名である。ミラノに行っても、演劇に関係するコースを選んでいたことが、本当にうれしかった。私もなんとか、彼の幸せ探しのお手伝いをしていたのだと。彼は今、ミラノの大きな壁の中から、小さな幸せ探しをしているのだろう。 |
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| 題名 |
: |
山芋とわさび |
| 名前 |
: |
竹山 榮一 |
| 国名 |
: |
ドイツ |
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陽の短い冬のある日、
私の住む部屋の大家さんが「車に乗って何処か他の街に行って絵を描いてきたら?」と言って車を貸してくれた。
ドイツ人だからドイツの美しい所を沢山知っているのだろう。また、近所の小さな街ばかりを描いていたのを気の毒に思ったのかもしれない。 私には毎日変化があって楽しかったし別に気にはしていなかったが、せっかくそう言ってくれたのだからと、家から60キロほど離れたマイン川と古い橋が連なるキッチンゲンというワインの有名な街に来た。
新しいモチーフに私の筆は踊った。
気持ちも浮かれて街を散策すると、小さな広場の隅にある果実と野菜を売っている屋台を見つけ立ち寄った。屋台の上に並べられた細長く土のついた野菜が目についた。
一般の者にはドイツ語は遠い言葉だったし、画家である私は生意気に絵が話してくれると言ってドイツ語が話せないのを苦にしていなかったが山芋であるのかどうかを確かめるのにはどうしたものかと思案した。そこで私は左手を皿にし、右手を握って擦る形をし、「こうして食べるのか?」と聞いた。
日焼けした小さな顔のトルコ人らしい店番が「そうだ。すって食べるんだ。」とニコニコしながら話してくれた。
今日は麦飯はないが、とろろご飯が食べられると思うと車はアウトバーンを滑るように心地良く走った。
家に戻り、早速泥を洗い落とし、皮を剥いてすり金具ですった。
白い色は山芋そのものだったが粘りがない。
人差し指につけて食べてみると、「うーっ!」それは普段食べたことがない洋わさびだった!
ある日、スーパーで買い物をしていたら赤身の美味しそうな肉を見つけた。“フント”という文字があった。えっ! ドイツ人は犬の肉も食べるのか? と思った。勿論、私は食べた事はない。でもあまりにも美味しそうなので試してみるかと思い、買って醤油、砂糖、お酒を入れて煮付けた。部屋中スキヤキのような甘い香りで溢れ幸せな気持ちになった。友人が来たので一緒にこのご馳走を食べる事にした。私が得意気になって話していると友人は肉の入った袋を見て「犬にどうぞと書いてある」と言うではないか!それにしても人間の食べる肉と一緒に綺麗に並べて売っていたのでまったくわからなかった。
その後、数年間の月日の中で日本にある野菜と似たようなものの見分け方や肉の種類もわかるようになり、日本で食べていたような料理も難なく作れるようになった。そんな時に日本から子供たちが遊びに来た。私は得意になってテーブルに日本食を並べた。ところが、帰りの車の中で「オヤジ、せっかくドイツに来たのだからドイツ料理が食べたかった。」と言われた。 |
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