題名 海外にて見つけたもの
名前 ホワイトモア 美生子
国名 イタリア
 

 10代20代のころ、海外にまつわるものは何でも眩しかった。英語が流暢で、はっきりした意見を物怖じなしに言うことができる帰国子女は憧れの的であり、青い目の旦那さんと、小鳥の囀る庭を見ながらの「ブレックファースト」は、遠く、素晴らしく、理想の生活だった。

 20代後半に近づくと、結婚しなければいけないような雰囲気が漂い、お見合いの話もちらついた。そんな現実から逃れて外の世界を見るためにイギリスに留学したのは10年近く前のことになる。初めての海外生活は、新鮮だった。友達になりにくいと言われるイギリス人だが、みんなとてもフレンドリーだった。初めのころは食事に困ったこともある。くたくたに煮尽くされた野菜、甘すぎるお菓子、駅の自動販売機で売っているものはお茶ではなくチョコレート。それでも、チップスやベイクドビーンズなどは低価でおいしいし、国際色豊かなイギリスのスーパーではいろいろな食材を手に入れることができた。イギリス生活を満喫するにつれ、心は日本から次第に遠ざかって行った。

 仕事のいい機会があり、ロンドンで働くことになった。仕事においても、ヨーロッパ人相手だと初めは戸惑うことがあった。腰が低くてはビジネスにならない。交渉も書類も全て英語でこなさなければならない。試行錯誤を繰り返しつつ、がむしゃらに働いて5年間、ふと立ち止まってみると、いつしか流暢な英語を話し、意見を主張することができるようになっていた。仕事を通して青い目の彼と出会い、結婚をし、庭に面するダイニングルームで朝食を摂るのが日課になっていた。「理想の生活」を送っていることには気が付かなかった。

 ある日、久しぶりに病気をした。腹痛でものが食べられない私を心配する主人は、炭酸の薄いスプライトがいい、バターなしのトーストがいい、といろいろ用意してくれる。たった一つ食べることがきたのは、おかゆだった。インスタントだが、心に沁みる味だった。夏が近づくと、実家から暑中見舞いが届いた。スイカと花火の絵に、想いを馳せた。秋には姪っ子から運動会に出るという電話をもらう。「2年生のとき、赤組だった?白組だった?」と聞かれ、何十年もの前のゴムのよれた赤い帽子と、玉入れと、母の手作りのお弁当を思い出す。大晦日を迎える前に家を大掃除する。日本の雑誌でふきのとうのレシピを見つける。満開の桜の写真を旅行会社のパンフレットで見かける。母から手紙を受け取る。「最近、花冷えが続いています。」花冷え、なんて美しい言葉、忘れていた。

 日本を発って約10年、やっと分かったことがある。海外の生活は大きな経験である。でも理想が海外にあったわけではない。イギリスでも日本でも、普通に幸せである日常生活こそが見失っていた理想だった。大陸を渡って、10年かけて本当に見つけたのは、海外生活の素晴らしさでも英語の能力でもなく、故郷への想いと日常生活に満足する自分自身だった。


題名 義父の思い出
名前 宮川 ジロー 三保
国名 ドイツ
 

 時計を見ると午前9時過ぎ。いつもならばゴソゴソ音がし「オハヨー」と起き出して来る時間なのに、サッカーワールドカップのテレビ観戦疲れで寝坊しているのかなとそっとドアを開けて見ると、不自然に口と目を半開きにし、すっかり血の気が引いた義父がベットにいた。85才2ヶ月の最期だった。

 「今日から君がこの家の主婦だから」と台所権を譲り受けたのは今から21年前。長男が生まれ、ハンブルグで狭いアパート暮らしをしていた私たちは大きい家に一人で住んでいた義父との同居を決め、南西ドイツにある主人の実家に越してきた。多少ドイツ語ができた筈なのに、この地方の方言がチンプンカンプンで、しかも初めて買い物に行った肉屋で「こんにちは、ジローさん」といわれて仰天した田舎町で の生活。主人が出勤した後、家事や育児を手伝ってもらい、ドイツ料理、ケーキの 焼き方、家庭菜園の管理などを教わりながらの生活が始まった。
 息子が片言の日本語を話すようになった時、自分も日本語を習いたいと週 1 回市 民大学の日本語コースに通いだしたのは 70 才近くなってからのこと。息子に追い越 されたと思ったら、 2 才年下の長女に負けられないと更に勉強を継続した。そのう ち娘の方が流暢に日本語を話すようになり、ついに断念。「タダイマー」「イタダ キマス」は日常語となったが「ゴチソーサマデシタ」はやや難易度が高かったらし く覚えられなかった。
 家族史研究を定年後のライフワークとし、フランス語の古文書を調べたり図書館 通いをして、とうとう 1 冊の本にまとめてしまった。それが縁でアメリカに渡った 子孫を見つけ出し、訪ねた事もある。
 著作作業にはコンピューターが便利だと聞き、コンピューターに挑戦したのは 70 才を過ぎてからの事。最近はインターネットも始めたが、原因不明のトラブルが 度々あり、その度に孫が応援に駆けつけるといった次第だった。
 私が子供達を連れて日本に里帰りした時に同行し、帰路は一人でシベリア鉄道を 乗り継いでドイツに帰ってきたこともある。
 自分で出来る事は自分でするのをモットーにアイロンかけ、ベッドメーキング、 自室の掃除について他人を煩わす事はなかった。私が作る食事について文句を言う こともなかった。

 ロンメル将軍の部隊に所属していた戦争体験、アメリカでの捕虜生活、ドイツの 古い習慣やものを大切にすることなど義父を通して知ったことは数限りなくある。 一つ屋根の下に住み、常に顔を突き合わせて生活しているとお互いに良い所も悪い 所もむき出しになってしまうものだが、義父が声を荒立てて怒ったのを一度も見た ことがなく、面と向かって叱責された事もなく、きっと私の我儘を見て見ぬ振りを していたのだろうが、私たちの共同生活は概ね上手くいっていたと思う。
 常に向上心を持ち、新しい事に挑戦し、家族と家を愛し続けた義父に改めて感謝 すると同時にいずれ訪れる自分の老後もそうありたいと思う。


題名 眼鏡をかけるように
名前 梅迫 ヘッティンガー 早智子
国名 ドイツ
 

 ドイツに来てびっくりしたことの一つは、眼鏡をかけている人が多いこと。そし て、その眼鏡が結構派手なことであった。それまでの十数年、ハードコンタクトレ ンズをつけてきが、ドイツの乾燥した空気のせいかよくレンズを落とすようになり、それをきっかけにマーブル模様の派手な眼鏡に変えた。似合っていたかどうか は別として、それから 10 年、ずっと眼鏡で通している。

 日本にいたときから軽度の難聴と言われていたが、学業に影響が見られなかった ため、ずっとそのままになっていた。特に高音と後ろから話しかけられるのは苦手 であったが、外見上、普通をよそおっていたため、私がわざと聞こえない振りをし ているのではないか、と時には思わぬ誤解を招くこともあった。
 そんな私が、縁あってドイツ人の旦那と知り合い、結婚。医師である義理の両親 の勧めもあり、耳鼻科で検査を受け、補聴器をつけることになった。補聴器調整の 時に、知らない単語が出てきて答えられなかったりと、外国人ならではのハプニン グもあったが、無事、自分に合ったものが出来上がった。ここでも、いろいろな色 が用意されていたが、髪の毛の色に合わせ、目立たないようにと黒を選んだ。
 初めて補聴器をつけた日、テレビを見て、アナウンサーのこすれるようなキツイ 発音にびっくりした。今までドイツ語にこんなにきつい音があることを知らないで いた。どおりで、私のドイツ語が通じにくかったわけである。自分なりに解釈する に、今まではいろいろな音域の「下半分」しか聞こえていなかった。そこに補聴器 をつけることにより、その「上半分」が加わり、世の中が急に騒がしくなった。と まどいながらも、いままで知らなかったいろいろな音と出会い、生き生きとしてき た私を見て、迷っていた高齢の義父も補聴器を購入した。

 そんなある日、意を決して旦那に聞いてみた。「まだ若いのに、奥さんが補聴器 をつけているなんて、いやでしょう…」「えっ、どうして…目が悪かったら眼鏡を かけるし、耳が悪かったら補聴器をつける。それで調整できるなら、つけない理由 なんてないよ。」
 それまで、身近な人が私のことをこんな風に受け入れてくれていたことを知らな いでいた。いろいろな音が聞こえるようになってうれしかった反面、補聴器をつけ ているということでどこか卑屈になっていた自分が、急に恥ずかしくなった。
 物事をあるがままに受け入れてくれる大人の国ドイツ。たとえ障害があろうと も、ありのままの自分で生きていくことの大切さを身をもって学ばせてもらった。 滞在 11 年。第二の故郷と決めたこの国で、何があっても前向きに、そして常に努力 を惜しまない自分でありたいと切に思う。

 朝目を覚ますと、眼鏡をかけ、補聴器をつける。さすがに、眼鏡のようなカラフ ルな色の補聴器をつける勇気はないが、歳月を重ね白髪が増えてきたら、今度はグ レーの補聴器にしようと、ひそかに決めている。


題名 私のイギリスの母
名前 矢嶋 真希
国名 イギリス
 私にはイギリスにも母がいる。暗い冬の夜に到着した私を、ネグリジェ姿で迎 え、紅茶を入れ、マシンガントークでシャワーの使い方などを説明してくれた、イ ギリスに初めて来た不安の塊のようだった私が最初に出会った人だ。言葉の通じな い外国人との共同生活に不安と緊張でいっぱいだった初めての夜…。
  70 歳と言う年齢を全く感じさせない彼女のパワー。お世辞にも上手いとは言えな い階下のキッチンから毎朝聴こえてくる彼女の歌で目覚ましいらず。一日中「 a cup of tea?」と紅茶攻め。イギリス人なのに「ねぇーおめでとうって どういうスペル?」などといつも私に聞いてくる、でも一年中書いているカードに はたーっくさんのX X X(キス)で愛がいっぱい。 3 人目のだんなさん、沢山 のこどもや孫たち、ボリュームいっぱいの毎日のイギリス料理、最初はケチとしか 思えなかったリサイクルに溢れた生活、多様な問題をもつ家族からの電話で家は毎 晩相談室、夢をかけて大騒ぎで見る毎週のロッタリー当選発表、夏の終わりから家 中をひっくりかえして準備が始まるクリスマス…。どこにも出かけない、新しいも のに興味もない、毎朝空を眺めて天気を読み、同じお店で買い物し、毎日同じテレ ビを見て、一日の出来事を夫と語り合い、何てBoring(退屈そう)な毎日な のだろうと最初はとても驚いた。彼女の知らない世の中の事、新しい事を教えてあ げたいとさえ思った。でもそれは間違っていた。地域に根づき、古いものを大事に し、毎日の流れを大切に繰り返し、家族を愛し愛され、自然と隣り合わせ、これが 彼女の素敵な暮らしで、イギリス人が大切にしているものだということを私は日々 の中から学んでいったのだ。ユーモアとパワーにあふれた彼女のおかげで涙を流し て笑わない日はなかった。彼女はいつのまにか私の‘イギリスの母’となってい た。彼女と暮らしながら私は、気取らないイギリス人の真の姿、苦労やよろこびと いったものを知った。もちろん、語学学校では教わることのない生活の知恵、料理 のレシピ、そして、‘ちょっと品のない英語’なども教わった。これはすべてかけ がえのない私の留学生活の糧となり、イギリスでソーシャルワーカーとなった今、 多くの階層・人種を超えた人たちの生活を支援するのに素晴らしく役立っている。 時々彼女の家へ‘里帰り’すると、ハグとキスの嵐に紅茶攻め、「ハローとサンキ ューしか言えなかった私の娘が立派になったねぇ!」と目を細めている。イギリス に来た頃は大嫌いだったイギリス料理が今は泣けるほど懐かしくて美味しい‘おふ くろの味’になっている。あの不安と緊張の塊だった初めての夜から 8 年―。
 近所以外、滅多に外出しないイギリスの母にいつか是非日本を見せてあげたい。 きっと好物のアンコを食べに甘味屋なんかに行って「スコーンとアンコ頂戴!」な んて注文してお店の人を困らせたりするのだろうな!

題名 小さくて大きい幸せ
名前 本間 謙
国名 ベナン
 子供は嫌いだ、と自分では思っていた。だから妻が妊娠がした時には正直戸惑っ た。自分が親になるなんて想像もできない。しかも既にアフリカ赴任が決まってお り、予防接種の関係で随伴できなくなった妻を日本に残すため、妊娠生活にも出産 にも立ち会えないという事情から何となく「子供」というものに実感がわかないま まだった。そもそも他人の子供に会っても可愛さを強烈に感じたこともないし、逆 にそんな気配を察して子供も自分のそばには寄ってこなかった。
 生後 8 ヶ月でアフリカの地を踏んだ娘も最初は自分のことを嫌がり、抱こうとす るたび泣いてうんざりすることもあった。友人が「父親という存在は赤ん坊と一緒 に生まてくる」と言ったが、 10 ヶ月もお腹の子と過ごす母親と違い、父親は子供の 成長と共にその自覚を育てるのだろう。
 ベナンでは、いろんな子供をそこら中で見かける。母親の腰布に巻かれた赤ん 坊、頭に物を載せて売り歩く少女、自分より小さい子の面倒を見る子供達。働いて いる子供は、親を手伝っていることに誇りを持っているように見える。アフリカの 国々では子供達がたくさん生まれる。でも厳しい環境に淘汰され、不幸にも命を落 とす子供が大勢いるのも現実だ。自分の周りでも、幼い子供を病気で亡くした人が たくさんいる。友人夫婦は、自分達より先に逝ってしまった幼子を忘れまいと、顔 に傷を作って残していた。
 そんな環境からか、ここの人達は子供が大好きだ。決して甘やかしはしないが、 子供にきちんと向かいあっていると思う。うちのお手伝いさんも子供好きで、いつ までも娘と一緒に遊んでいる。同じことの繰り返しを好む幼児相手に、何時間もよ く辛抱できると関心するのだが、彼女には少しも苦痛ではなく、自分の子供達の幼 児期を思い出し、もう一人子供を持てたような気がしてむしろ幸せなのだそうだ。
 一時帰国の時、孫の一挙一動に驚きの声を上げ目を細めていた実家の両親を見 て、「あのようにして自分も育てられたのだ」と思い何か感慨深いものがあった。 「親の気持ちは親にならないとわからない」と言われても昔は理解できなかったが 今は素直にうなずける。そして孫がやってきたというだけで、家の中の空気が何だ か和らぐのも不思議だった。
 子供の魅力は侮れない。妻の両親は遠路も予防接種もなんのその、孫見たさにつ いにアフリカまでやって来た。観光せずとも孫と一緒の時間が過ごせればいいと一 日中遊び相手をする義父母を見て、妻もまたこの温かい眼差しに見守られて大きく なってきたのだろうと微笑ましく思えた。
 ベナン人達も、娘が現地語をしゃべった、ダンスが上手になった、ご飯をいっぱ い食べた、等の他愛のないことでも自分の子供のことのように喜んでくれる。多く の人の温かさに包まれて幸せだ。時には忍耐も要るアフリカ生活だが、ほんの少し の喜びでも幸せになれる心を、家族と一緒に大事にしていきたいと思う。
 
 

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