題名 異国にて、父を想う
名前 北野 法子
国名 イギリス
インタビュー
2004年10月、リビングの窓から下を見ると、そこには父の笑顔があった。1年2カ月振りの再会。突然父は、一人でロンドンへやって来た。たくさんのお土産を鞄に詰めて。その2カ月前に大腸がんの手術を済ませたことなど、その時の私には知るよしもなかった。
父はとても元気そうに見えた。ここ数年、杖をついて歩いていたようだが、手に杖は持っていない。足もひいていない。毎日出掛ける元気もあり、子供達が学校へ行っている間、私は父と2人で大英博物館やバッキンガム宮殿、ビックベンなど観光を楽しんだ。地下鉄の中で、サンドイッチを食べている人を見ては驚き、洋服売り場での服のサイズに驚き、スーツ姿でハンチング帽を被った人を見れば、「やっぱりイギリスは紳士の国だなぁ」と感心する父。「散歩に行ってくる」と出掛けた父は、日本食スーパーで1.6ポンド(320円)もする缶コーヒー2本と、4ポンド(800円)もする煎餅など抱えて帰って来た。「お父さん、何も高いお金出して買わなくても、日本へ帰ったらまた食べられるのに」と言う私に、「まあ、いいじゃないか。イギリスで飲む缶コーヒーは、また格別だ」と、おいしそうに飲んでいた。
父の滞在は3週間だった。こんなにも長く父と2人で過ごしたのは、生まれてから初めての事だった。2002年の9月、主人の転勤でロンドン行きが決まった時、父は絶対に遊びには行かないと言っていた。この歳(当時65歳)になって、長時間のフライトや文化の違う外国は耐えられないと。父の来る半年位前にも、「マイレージが貯まっているから遊びにおいでよ」と電話しても、曖昧な返事しかもらえなかった。大腸がんだったなんて知らなかった。
父の滞在もあと1週間となった頃、日本に残っていた母から電話があった。
「近所の人がね、最近お父さんの姿が見えないから、また入院したのかって言われてね」
「えっ、お父さん入院してたの? いつ?」
「えっ? えっと、それは…」
「ちょっと待ってよ。何の話? いつ頃? 私聞いてないよ!」
父は1月にも手術をしていた。その時、手術が長びいて体温が下がった為中断し、8月に再手術をしたらしい。幸いにも手術は成功して、父は元気になった。只、再発の恐れがある為、毎年検査はしなくてはならないようだ。私は父に「何で言ってくれなかったのよ」と平静を装って軽く聞いた。父も母も、大した事はないからと言っていた。離れているのに余計な心配はかけたくなかったから。本当に危ない時はちゃんと知らせるからと。
父が寝た後、私はリビングで大泣きした。_ 父の死 _人間生きている限り、必ず死は訪れるものだが、死が急に現実のものとして音も立てずに近づいて来た。「お父さん、死んだら嫌だよ…」私は子供の様に泣きじゃくった。
次の日から、私は1秒1秒、父といる時間を心に刻もうと努めた。英語を話せない父が、どこにでも1人で出掛けて行く。知らない人に話し掛けられても笑顔で応じ、子供の送り迎えにも行き、お母さん方や先生と積極的に挨拶をする。「お父さん、英語話せないのにすごいね」と私が言うと、「同じ人間なんだから、ジェスチャーと心でどうにかなるものさ」と笑っていた。「ああそうか、英語が話せないから、文化が違うからとバリアを張っていたのは私の方かもしれないな」。いくつになっても親は超えられない。父からまた、勇気をもらった。私ももう少し、頑張るか。
あれから1年…。今月の30日、父はまた手術をする。先日の検査で腫瘍が見つかったのだ。Eメールだ、電話だと便利になった世の中でも日本はやっぱり遠いと実感させられる。お父さん、頑張って!そして、またいつかイギリスで、あの笑顔に会いたい。

題名 役人に向かって怒鳴る男
名前 小沼 明生
国名 ドイツ
インタビュー
「滞在許可を取るには住民票が必要だというから来ているんです。でもあなたは住民票には滞在許可がいるという。どうすればいいというのですか。理解できません」。市役所の役人の横柄な態度に腹が立ち、僕は立ち上がって怒鳴った。そんなことをするのは初めてだった。きっと怒鳴り返されるだろう。相手は怒って書類を出してくれないだろう。もう滞在許可も取れないかもしれない。そうしたら身重の妻を連れて、身辺を整理して出てきたばかりの日本に戻らなければならないかもしれない。そこまで追いつめられていたからこそかえって怒鳴れたのだろう。1人っ子で、優等生で、大学院生だった僕はそんなことで追いつめられてしまうほどひ弱だったのだ。後でわかることだが、こんな役所内のたらい回しはここドイツでは日常茶飯事である。
しかし相手の反応は予想とは正反対だった。急に目をそらしてそそくさと電話をかけ、書類に一つ判を押して差し出しながら言った。「これを持っていけば滞在許可が下りることになっています」。そして事実その通りになり、ゆうに2週間は滞っていた一連の事務はその後数日で片づいてしまった。こうして僕たちのドイツ生活が始まったのだった。
このときのことを思い出すと、いつも映画「ダンス・ウィズ・ウルヴズ」にあったネイティブ・アメリカンのスー族の話を連想してしまう〜スー族の子供には名前がない。名前は彼らが初めて何か意味のある行為をしたときに付けられる。スー族に保護された白人少女は外見の違いをからかわれて怒ったとき、「拳を握って立つ女」と名付けられる。主人公は犬とじゃれる姿から「狼と踊る男」として受け入れられる。してみれば僕は「役人に向かって怒鳴る男」になったというわけだ。
ドイツに来てはじめて共同生活を始めたので、僕たちはいつも喧嘩ばかりしていた。役所ではたらい回し、車の登録は進まず、病院の予約はなかなか取れず、スーパーに行けばどこに何があるのか予想がつかない。毎日緊張の連続で、いつもくたびれ果てて、途方に暮れていた。僕たちはしょっちゅうささいなことでぶつかり、怒鳴って、わめいて、泣いた。それでも2人でどうにかするしかなかったから、答えが出るまで話をやめなかった。そうして不毛の繰り返しに思えた喧嘩も次第に意味を持ち、間隔があくようになり、その分少しずつお互いを信頼できるようになった。
ドイツ社会との格闘ももちろん続いていた。役所と、企業と、個人と、病院と。住居のこと、お金のこと、車のこと、子供のこと、あらゆることでトラブルが起きる。そのたびに僕は役所巡りをし、電話をかけ、苦情や請求や請願の手紙の山を築いた。まるで毎日が殴り合いだなと思った。もちろん、言葉での殴り合いだ。でも、そのおかげであるとき気づいた。どうやらドイツ人は自分と殴り合った相手を軽蔑するのではなくて、むしろ信頼するらしいのだ。彼らはまるでニーベルンゲンの歌に出てくる騎士たちのように、自分と死闘を演じた相手を信頼し、尊敬する習性があるらしい、と。そうして僕もドイツとドイツ人というものを信頼できるようになっていった。
他人とぶつかり合うことが出来ないひ弱な人間だった僕も、ドイツ人たち(と妻)に鍛えられてだいぶたくましくなれたらしい。思えばすべての始まりはやはり、市役所で立ち上がって怒鳴ったあの日だった。だから僕の名前は、スー族に言わせれば、やっぱり「役人に向かって怒鳴る男」が正しいことになるだろう。
そこでちょっと想像してみる。もしこの「役人に向かって怒鳴る男」が誇り高いスー族の酋長なら、僕たち日本人についてこんな風に言うのじゃないだろうか。「君たち日本人は調和を愛すると言うけれど、それは君たちの弱い心が作った偽りの説明だ。相手とぶつかることが怖くて黙っているのは調和じゃない。本当の調和はぶつかり合った後に来るものだ。痛みをおそれず自分に向かってきた人間への信頼と尊敬から生まれるのだ」と。
 



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