題名 英国手話と出会って
名前 矢部 愛子
国名 イギリス
英国に来て5年になる。現在、高校3年の私はあと数カ月でここを去ろうとしている。今までの懐かしい思い出が脳裏に蘇ってくる。英国で過ごした時間は私にとってかけがえのない大きな収穫だった。
私は生まれた時から耳が聞こえない。幼い頃から手話を使わず、口の形を読んで会話をする「口話法」を習った。そして、舌の位置を記憶し、聴いたことのない声の音でしゃべるようにと教育されていた。理由は難聴の子供が手話に頼ったコミュニケーションを覚えると、将来、社会人になった時に困るからということだ。しかし、口の形や動きは人によって違うので、口を読むのは難しいし、難聴者の発音は、普通の人は聞き取りづらい。だから、会話で分からないことがあっても、その場の雰囲気を壊さないようにと、笑顔でやり過ごすことが多くあった。学校の授業では、先生の話がわからないので、板書と教科書を丸暗記してしのぐしかなかった。だから、「口話法」では完全なコミュニケーションができないと、ずっと心のなかで疑問を持ち続けていた。けれども、街角や店で楽しそうに難聴者が話している「手話」を横目で見ても、珍しい仕草だと、他人事のように思っていた。「手話」が難聴者の「言語」であり、微妙で複雑なメッセージも伝えることができる「完全な言語」であるとは知らなかったからだ。
ところが、中学生の時、英国に来て「英国手話」と出会った。両親と一緒に、夜間のカレッジの英国手話クラスに通い始めたからだ。健聴者の生徒が流暢に手話を操る中で、私は生まれて初めての手話に悪戦苦闘した。ところが、ある日、自分の手が自然に動き出していることに気付いた。そのうえ、相手の言ったことが完全に理解できた。自分の言いたいこともはっきりと言えた。そうか、これなんだ!私はその時、初めて自分の言葉を得たことを感じた。私は「手話」が難聴者にとって大切な「言語」であり、「命」であることを知った。そして、今まで私の心の中にあった、もがくような不安な気持ちが完全に取り去られた。安心感と解放感に満たされ、目の前の世界が広がっていくのを感じた。「耳が聞こえないことは私の個性。誇りを持っていけばいいんだ!」そう思うたびに嬉しい気持ちがどんどん湧きあがってきた。手がむずむずした。誰かと手話でおしゃべりしたい!という気持ちがますます強まっていった。そう、私がこの「英国手話」を「自分の言語」として受け入れた瞬間だった。
気がつくと、私は英国手話を半年でマスターしていた。1年後には上級レベル試験に合格していた。また、英語の学習についても変化が現れた。英語の口話法は習ったことがないのに、中学生の時、英語で話すように言われ、とても辛い思いをした。だから、英語は不得意科目になってしまった。ところが、手話のおかげでぐんと英語力が高まり、たちまち得意科目となった。
この「英国手話」との出会いは、消極的思考から積極的思考へと私のアイデンティティを変えた。手話をしている人に出会うと、私はワクワクして話しかけたくなる。私はこの喜びを他の人たちと分かち合いたい。私は耳が聞こえないことを不便、大変とは思っていない。むしろ、この社会が未だに健常者中心の社会であり、それに合わない人々に対応できる社会まで発達していないから、不便を生じ、悲観的になるのだ。
「手話」は「難聴者の言語」であり、「命の言葉」だ。それは難聴者の歴史のなかで生まれた文化だ。そして、健聴者と難聴者がお互いの言葉を認め合い、多言語が共存する社会に目を向けていって欲しい。この社会が、健常者とそうでない人々が同等の立場で活躍できる社会になることを願ってやまない。

題名 ラストダンス
名前 ヴィンクラー 鈴木 由香
国名 ドイツ
まるで世界中の海の色を集めたようだ。様々な青に彩られたロングドレスが、窓から入りこむ風を受けて遠慮がちにゆれた。普段はくすみがちな彼女の青い目も、今日はドレスに負けじと明るさを取りもどしている。
「このドレスはね、マティアスが高校生のときに通っていたダンススクールの卒業ダンスパーティーで着たのよ。この色の組み合わせが一目で気に入ってしまってね。いまだに始末する事が出来ないの」。
ハンガーからはずすのももどかしいのか、そのまま大事そうにドレスを撫でている夫の母。今年80歳になった彼女が、30年近くも前の思い出話を繰り返す。
ここドイツでは、高校在学中にダンススクールへ通い、ワルツやタンゴなどの社交ダンスを一通り身につける例が多い。夫もその1人で、残念ながら盆踊りぐらいしか踊った事のない私と一緒では、なかなか腕前を披露する機会に恵まれないが、パーティーなどでゲストの御婦人達と踊っている時などは、自分の目を疑うほど紳士面をしているのだ。普段は、私のように踊れなくても何の問題も無いが、ダンスパーティーや結婚式ではちょっと困ってしまう。晩餐が終り、新郎新婦が2人でワルツを披露すると、その後はゲストもそこに加わり、夜が更けるまで踊り明かす。私のように踊れない者はほとんどいないから、1人寂しく壁の花となるのだ。
ほとんどのダンススクールの卒業ダンスパーティーでは、ラストダンスは女の子は父親と、男の子は母親と踊るのが恒例である。タキシードとロングドレスの親達の方が、当の子供達よりずっと華やいで見える。それもその筈。年頃の娘や息子に正式にダンスの相手をしてもらえるなんて、このチャンスを逃せばそうそうあるものでもないだろうから。
すでに亡くなっている夫の父は頑固・偏屈を絵に書いたような人で、音楽や芝居には何の興味も示さなかったらしい。反対に夫の母は、合唱暦70年を誇り、今も村の教会の合唱団で歌う。芸術を愛し、服や小物にも良い趣味をのぞかせる。しかし結婚後はそんな夫への遠慮もあり、踊る事も無かったようだ。だから、母親として堂々と息子と踊って良いラストダンスの思い出は、今も消える事無く彼女の中で生きているのだろう。その時の曲は ”ムーンリバー“。オードリー・ヘップバーンが、映画の中で歌った名曲である。夫の母がテレビやラジオから流れるこの曲を偶然耳にすると、「あっ」と言ったきり動作が止まる。その間、彼女だけ違う世界へ行ってしまう。きっと、思い出の中で踊っているのだろう。今では歩くのさえやっと、たぶん踊る事などもう出来ないだろう。思い出は、そんな彼女を踊らせる事が出来るのだ。まるで、優しく手を取るように…。
15回目の結婚記念日を迎えた夫と私。彼女はいつも私に優しかった。いじわるをされた事など、ただの一度も無かった。言葉の違い、習慣の違い、誤解が誤解をよぶ事もあった。若かった私は、つまらない事でふくれたり泣いたりもした。そんな私を、いつも見守り抱きしめてくれた彼女。姑という乾いた響きで、簡単に彼女をよぶ事など出来ない。
今年の彼女の80歳の誕生日は、親しい者20人程でお祝いをした。私の息子からのプレゼントは、考えた末のピアノ演奏。思春期まっただ中の14歳には勇気がいる事だった。曲は ”ムーンリバー“。息子がピアノを弾いている間、彼女はまた違う世界にいるように見えた。でも今度は、彼女の息子と孫息子、順番に踊っているのかもしれない。彼女の年代のゲスト達も、同じ表情をしていた。皆、それぞれのラストダンスを踊っているかのように…。

題名 神様になろう
名前 小林 伸枝
国名 イギリス
3年前、日本の小学校運動会の昼食時、3年生の席にぽつんと残っていたブラジル人のトーマス君を、私と娘は連れに行って、一緒にお弁当を食べ始めた。ほどなく彼は母親が会場へ入ってくるのを見つけ、駆け寄って行った。あの時居合わせた人々は皆、あの外人はこんなに遅く現れて子どもがかわいそうに、日本語がわからないのだろうなどと考えたに違いない。そして見なれないその親に話しかける人は、私を含め誰もいなかった。親子の姿は少し哀れであった。
1年後、私はウェールズの小学校に、日本人、つまり外人として娘の送迎で顔を出していた。私自身が自ら外人のつもりでいては、よそ者のままだと思い、クラスメイトの親達にこちらからあいさつをした。ところが、英語力の無さにその先の会話が続かず、申し訳なくて私は親達に近付くのをやめ、なんとなく壁を作ってしまった。
渡英して1年半後、娘の英語は日常会話に困ることもほとんどなくなっていた。娘は私立校へ転校した。2カ月経った頃、学校から家へ帰ったとたん、娘が大粒の涙をこぼし泣きだした。私は娘を抱きしめ、もらい泣きを隠した。言葉はなくても涙の理由はわかった。娘にはまだ友達ができないのだ。いつも一人ぼっちなのだ。
学校行事のあった日、たまたま私の隣に座ったルースという少女のお母さんが、
「ユカリはこの学校に慣れた?」
と、私に訊いてきた。私は社交辞令の「おかげさまで」にあたる返事の仕方がわからないし、すぐに何か言わなきゃと焦って、
「ユカリは泣きました。まだ友達を作れないから。私はどうしたらいいかわからない。」
と、心にあったことが言葉に出てしまった。初めて言葉を交わした人に、こんな悩みを話すなんて変だと、瞬時、後悔した。すると、そのお母さんは、
「私の娘にそのことを話してみるわ。」
と言った(と思う)。
それから1カ月後のある日、いつものように校舎から出てくる娘を見ると、今までに見たことのない光るような笑顔で私に駆け寄り、
「お母さん、今日リディアにベストフレンドになろうって言われた!ルースとも友達になった!」
と言うではないか。映画「トップガン」のトムクルーズの凱旋シーンに流れたあの曲が私の体中に流れた。うれしい、本当にうれしい。今まで自分の英語力の足りなさ故、娘の力になれないことで悲しんでばかりだったが、今回はそれが却って、ルースのお母さんに、娘の悲しさをそのまま伝えられたのだ(と思う)。ルースのお母さんにお礼を言うと、
「あなたはいつも笑顔でいるでしょう。だから話しかけてみたのよ。」
とおっしゃられる。この人は神様だ、と私は思った。
誰が誰の親で、どんな感じの人か、毎日同じ時間同じ場所で同じ顔と会う、子供の安全のための、この徹底した英国式の送迎方法のおかげで、私達親子は救われたのだ。
今では友達もたくさんできてハッピーな娘に、当時のことを尋ねると、
「一人ぼっちで何をしたらいいのかわからなくて、居場所がなかった。とにかく誰でもいいから話しかけてもらいたかった。」
のだそうだ。本当にそうなのだ。
あの運動会の日、トーマス君のお母さんに
「一緒にお弁当を食べましょう。」
と言ってあげればよかった。もし、そう声をかけていたならあの親子の姿は人々の目に明るく映り、親子の気持ちもどんなに明るくなっただろう。
私は帰国したら、外国人の親や転校生の親を見つけては話しかける、神様のような日本人になろうと強く思っている。

題名 父とスメタナ
名前 辻本 豊
国名 チェコ
「よーし、オレに任せとけっ!」
父は、嬉しそうな笑顔で、僕に言った。あの時の笑顔を、今でも、時々思い出す。
僕が中学生だった時、音楽の期末試験で、放送テストがあった。教室前方のスピーカーから流れてくる、クラシックの曲を聴き、作曲家と題名を解答するものだ。父は、テスト対策にと、大切にしているレコードコレクションから、有名曲を抜粋したカセットテープを作ってくれた。ダビングしている父は、本当に楽しそうだった。その中で、僕が好きになった曲は、スメタナ作曲の「モルダウ」だった。それは、父のお気に入りの曲でもあった。
当時の僕には、スメタナがどこの国の人かなんていう知識は全くなかった。チェコ出身だということを知ったのは、かなり後になってからだ。ただ、この曲の憂いを帯びながらも、力強い響きが好きだった。
人生は不思議なもので、大人になった僕は、今、チェコ共和国の首都プラハに住んでいる。スメタナの生まれ故郷にやってきたわけだ。もちろん、父は、大いに喜んでくれた。父にとっても、プラハは憧れの土地だった。そして、プラハ訪問を計画し始めた。旅行会社をいろいろ回り、ガイドブックを買い込んで、綿密な計画を立てていた。こういうことが大好きな父だった。
しかし、米軍のイラク進攻、新型肺炎(SARS)流行などが、次々起こり、父のプラハ訪問はなかなか実現しなかった。いよいよ父の長年の夢が実現しようとしていた昨年春、父は突然倒れた。その後は、入退院を繰り返し、ついに年末に息を引き取った。
年末年始の一時帰省で帰国していた僕は、父のそばにいることができた。おそらく薄れ行く意識の中で、父が、最期に僕にかけてくれた言葉は、「プラハで、頑張れ!」だった。
今年も、また、プラハの春音楽祭の季節がやってきた。毎年、スメタナの命日である、5月12日が初日になる。オープニングコンサートで、交響詩「モルダウ」が演奏されるのが恒例だ。
今年、僕は、父の写真を持って、会場に行った。天国にいる父に、「モルダウ」の音色が届くことを祈った。サー・コリン・デイヴィス指揮、ロンドン交響楽団による、素晴らしい演奏だった。興奮覚めやらぬ中、スメタナホールを出て、夜のプラハの街を歩いた。そして、モルダウ川までやって来た。川は、いつもと変わることなく、静かに流れている。この場所で、父に向かって、これだけは、言っておきたかったのだ。
「後は、僕に任せておいて下さい!」

題名 思い出の重さ
名前 水沢 均
国名 イギリス

君達が日本へ帰ってから1週間、部屋をかたづけてしまうと思い出まで消えてしまいそうで手がつけられなかったけど、今日ようやく決心をしました。家具を元に戻し、しぼんだ風船と紙工作の箱を捨て、ソファーの落書きを消し(これは大変だったぞ!)…、そうそう、探していたゲームの駒や宇宙銃の弾もあちこちから出てきました。でもきれいになった部屋は少し悲しくて、集めたものをもう一度ばらまいてみましたが、君達のようには上手く散らかせませんでした。
あれは去年の夏、蒸し暑い夜のことでした。イギリスへの単身赴任を君達に説明すると、真悠、君はさすがに小学生、困った顔をしながらも何となく事情を分かってくれました。可胤、君はまだ1歳だったので何も分かりませんでしたよね。そして六橘、君は泣きながら、「どうしてそんなとこに行かなくちゃいけないの?」と聞き返してきました。君の涙には父もぐっときましたが、家や食事や勉強にはお金がかかること、そしてサラリーマンがお金を得るためには、会社の言う通りに働かなければならないことを、できるだけ冷静に教えてあげました。 すると君は部屋から自分の貯金箱を持って来て、「お金なら僕が持ってる。だから行かないでよ!」とまた涙。さすがに今度は父も耐え切れず、君を抱いて泣き崩れてしまいましたっけ。それから1年、たまの日本出張でもゆっくりと遊んであげられず、運動会や誕生日でも他のお父さんのように一緒にいてあげられず、君達には本当に寂しい思いをさせてしまっています。でも、実は父も寂しくて家中に君達の写真を飾ってあるのを、今回見られてしまいましたね。ベッドの脇のは「お早う」と「お休み」用、玄関のは「行ってきます」と「ただいま」用、答えはないけれど、毎日声をかけているのです。パソコンのスクリーンセーバーにもたくさん写真を入れて、いつも眺めています。たまに会うと写真を撮りまくっているのはこのためです。かっこ悪いですよね。この夏休みには君達が訪ねて来てくれて、遊園地や動物園やロンドン観光にも一緒に行くことができました。家の中でも外でも、毎日よく遊びましたね。父は、ツアーガイド・運転手・家政婦・ベビーシッターを一人でこなしてへとへとでしたが、夜は君達が隣で寝ているのが嬉しくてよく眠れませんでした。でも一番嬉しかったのは、君達の動く姿を見て生の声が聞けたことです。写真は、どんなに想いを込めても応えてはくれないですものね。そして夢のような2週間はあっという間に過ぎ、料理や洗濯の量も、夜の部屋の静けさも、みんな元通りになってしまいました。明日は今回撮った写真を整理して、家中の君達を入れ替えてあげようと思っています。
何度か「人生で一番大切なもの」を考えたことがあります。若い時は愛する人だったり夢だったりお金だったり…、でも遠く離れて暮らす今、父の一番の宝物は君達との思い出です。思い出が大切だなんて年寄り臭いでしょうか。他人が聞いたら可哀想な奴だと思うでしょうか。いえいえ、心配も同情もいりません。会うたびに増え続けて重くなっていく宝が、父は嬉しくて仕方がないのです。今度生まれてきた時も、また親子になれたらいいですね。早く一緒に暮らせる日が来るように、父は毎日頑張っています。
いばりんぼで泣虫の父より。

P.S.
しばらく会えないだけでこんな気持ちになるのなら、いつか君達が家を出て行く時は一体どんなでしょう。少しずつ覚悟を積み重ねておかなければいけませんよね。
*真悠=長女7歳、六橘=長男6歳、可胤=次男2歳 (As of SEP.15.2005)


題名 ノッティングヒルの叔父さん
名前 堀 明彦
国名 イギリス
2004年4月、2度目の英国赴任のため私は久々にヒースロー空港に降り立った。土地勘はあるとは言え、勤務が何年に及ぶか分からない異国での生活に緊張と不安は募る。もっとも英国は嫌いな国ではない。
実は英国と我が家は縁が深い。軍人だった曽祖父は英国の大学で海軍技術を学んだ。役人だった祖父は家族、つまり私の父を伴って80年以上前にこの地で勤務していた。そして私も転勤で家族と共に10年以上前に住んでいた。奇妙にも曽祖父から私の子供まで5世代が連続して同じ異国、英国で暮らした経験が我が家にはある。だから、この国を嫌い、と言ったらバチが当たるだろう。
私が前回の英国勤務をしていた1993年の冬の事だ。当時74歳の父と67歳の母が、私達家族を訪ねに英国にやってきた。父にとっては幼稚園と小学校を過ごした国だ。滞在中は昔を懐かしむ日々が続いた。かつて父は、NottingHill の "1 Stanley Crescent" に住んでいた。父の弟はそこで生まれ、乳母からは住所に因んで "Stanley" と呼ばれて育てられていた。しかし3歳を過ぎた頃に病にかかり、その家で息を引き取ったそうだ。
両親が滞在中のある日こんな事があった。Fortnum & Mason の骨董売り場を見ていた時だった。高価な年代物の木馬があったのだが、それを見つけた父はツカツカと歩み寄り、店員を呼び「君はここを取ってこうすると、こうなるのを知ってるか?」と言いながら鞍の一部を外し木馬を分解し始めた。勿論、手を触れてはいけない、と書いてあったのだが、あまりの手際の良さに店員も注意をせずに逆に興味を示し「何で知っているのか?」と年老いた東洋人に質問した。父はニヤッとして「小さい頃、これに乗って遊んでいたんだ」と得意そうに答えていた。「へえ〜」と店員が肩を竦めていた横で、私は木馬が父が乗って遊んでいたものであって欲しいと願った、いや、きっとそうに違いないと思った。
そして数週間に及んだ両親の英国滞在も残り少なくなってきた2月の週末に、私は父に「日本に帰る前にどこかに行きたいところはある?」と尋ねた。父は「この国に来るのも最後だろうから自分が住んでいた家をもう一度見てみたい」と答えた。
私は両親を車に乗せ "1 Stanley Crescent" を目指した。家の前で停めた車から降りた父は暫くの間、懐かしの家を感慨深げに眺めていたが、突然、理由も告げずに歩き始めた。母が「どこへ行くの?」と聞くと父は「いや、ちょっと」と答えただけで幾つかの角を曲がり、何かに吸い寄せられるようにドンドンと歩いて行った。父から少し離れて母と私がついて行くと、やがて目の前に古くて使われていないような、みすぼらしい教会が現れた。父は立ち止まり、「これだよ」と言ったので、母と私が「何が?」と聞くと「いや、ここでStanley のお葬式をしたんだよ。ところで今日は何日だい?」と母と私に尋ねた。私が「2月13日だけど…」と答えると父が「ああ、なんだ命日か」と言い、教会に向かって手を合わせた。母も私も背中に冷たい何かが走るのを感じたが、叔父さんはお兄さんに会いに来て欲しかったんだね、と思った。
今回の私の英国勤務も既に1年以上が経過した。この間、自分が昔住んでいた家、あるいは家族と一緒に行った所がどうなっているのか訪ねてみた。多少の違いはあるものの、風景などには殆ど変わりはない。10年以上もの時は直ぐに埋り、もしかしたら日本に帰らずに、ずーっと英国に住んでいたのではないかと錯覚するくらいだ。これが英国の良さなのかもしれない。さて、私は両親と訪ねた "1 Stanley Crescent" に今回は訪れていない。傍を通る事はあるのだが。なぜって、我が家にとって特別な国に、今や86歳と79歳の老父母を何とかして連れて来て、一緒に訪ねたいと思っているからだ。

題名 アフリカのエリート
名前 本間 倫子
国名 ベナン
生後8カ月の娘と共に、主人の待つアフリカの大地に降り立って早4カ月。当初は地理的なことはおろか、国名さえも知らなかったこのベナン共和国での生活にも、やっと慣れてきたところだ。
何しろ初めてのアフリカ生活である上に、初めての子育てである。乳飲み子を抱えて、日本とは違う環境に戸惑うこともしばしばだ。まず娘には、予防注射を毎回2種類同時に太腿に接種されて驚いた。また下痢の時にコーラを飲むように言われたり、高熱時に水風呂に入れて頭からシャワーで冷やすのにもびっくり。さらにベナン人には、「赤ん坊にはこれを」と蜂蜜・ニンニク・肝油を混ぜてつくったエキスを薦められたが、日本ではこれらは赤ん坊にはあげないようにと言われている物だ。そんな驚きの連続だが、親の心配をよそに娘は意外と早く順応し、今のところ元気に育っている。
そんな娘は、なぜかいつも男の子に間違われる。どんなに女の子らしい服装でも、必ず「彼は何カ月?」「彼の名前は何?」などなど。最初は「髪の毛も薄いし、確かに男顔だし」などと暢気に構えていたが、あまりに頻繁なので「なぜ?」と心配になってきた。そこで私達がいつも頼りにしている、ベナン在住25年の日本人に尋ねた。するとマダム曰く「ここでは女の子は生まれるとすぐに耳にピアスの穴を開けるんですよ」。なるほど、とちょっとほっとした。
しかしよく考えてみたら、ベナンの乳幼児死亡率は14・6%、出産時に臍の緒から感染する「新生児破傷風」も少なくない。そんな環境で、開けた穴が化膿して命を落とすようなことはないのか?「そうねぇ、でもピアスの穴を開けたくらいで死んじゃう赤ん坊なら、たぶんこれからも長く生きられないということなんでしょう。ここでは生後すぐに過酷な環境が待っているから、その厳しさに耐えられる命だけが生き残っていくんですよ。だから大人になった人達は、皆けっこう元気でしょう?」そう言えば、使用人も職場の運転手も休んだことがない、と主人も言っていたっけ。現地人もよくマラリアに罹るらしいが、ほとんどは体調が悪くても働けないほどひどくはならないらしい。ここで生きていく為に、基礎体力や抵抗力、免疫力が備わっているということなのだろう。
「この国で ”生きている“ということは、それだけでエリートなんです。生まれる前、そして生まれてからも何度も淘汰されて生き残ってきているわけだから、アフリカでは生き続けていることこそがエリートの証なの。長生きしている人なんか、それだけでも超エリートというわけ。だからここで生きている人たちは皆、”命のエリート“なのですよ。」
「命のエリート」_ 何という凛とした響きの言葉であろうか。日本で生を受けて以来、生き続けていることがごく当たり前の環境で育ってきた私達にとって、それはとても深く重たい言葉でもあった。日本の日常では忘れてしまいがちな「生」が、ここでは確実に意識されている。よく「途上国の人はいつもその場のことしか考えないし、長期的な視野をなかなか持てない」と言われるが、裏を返せば「いつどうなるかわからない命だから、今を精一杯生きよう」ということなのかもしれない。「生きることは幸せなこと」という大切で根本的なことを思い出させてくれる言葉であった。
ベナンに住むことになったのも何かの縁だ。不便、不安、不快なこともいっぱいあるけれど、いろいろ悩むのも生きているからこそ。このアフリカでの経験は、将来私達家族の大きな糧になるに違いない。異なる環境、価値観、習慣、感覚、言葉などは、きっと幼い娘にもそれなりに様々なことを感じさせてくれることだろう。そうやって心も体も豊かな人間に育っていってほしい。鼻の頭にびっしり汗をかきかき昼寝をしている娘を見ながら、アフリカに連れてきてよかったかもしれないと思った。
貴女もきっときっと、「命のエリート」に育ってね。
 
 

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