題名:ガーデン・フライ
名前:小野 滋樹さん
国名:スイス |
英国気質は物事の過程を難しくすることに愉しみを見い出す。釣りに於ても、紳士の嗜むべきは羽虫を模した毛鉤釣りであると定義する。自然に自然がとびつくのは当然である。模写での一尾にこそ意味があるとされるのである。同時に釣りは然る可き地位と階級を象徴し、釣行に際してはジャケットの着用が要求されるまでに昇華された。現在でもロンドンの一角には、紅茶や磁器と並んで王室御用達の釣具商が厳然と店を構えているのである。
この、世間とは凡そ懸け離れた世界に妻と私が飛び込んでしまったのは、無知のなせる業以外の何物でもなかった。ロッジに滞在の顔ぶれは、大学教授、医師に弁護士と誠に申し分ない。一方こちらは完全に位
負けである。餌釣りで生涯初の鮭を手にしようが、1mを超える大魚に糸を切られようが、彼等の諭す様な眼差しを前にしては、敢えなく沈黙してしまうより術が無い。住んでる世界が違うのヨ。妻が長嘆息をついている。
雪辱の念にかられて毛鉤に挑戦すると言い出したとき、お歴々は、毛鉤に紛れ当たりは有り得ない。まずは頑張ってみることだ。と誠に落ち着き払ったものであった。不漁を覚悟しての釣りではあったが、諦めが釣師の邪心を消してしまったとみえて、立所に鮭は釣れてしまった。それが一度ならずも三度続いたものだから、さしもの紳士達も穏かではいられなくなる。食卓から釣りの話題が消えてしまい、どこが穴場で何が当たり鉤なのかも語られなくなる。鮭を手にした彼等を見かけても、「ちょっとガーデンフライを使ってみたまででネ。」と、謎めいた言葉を残したまま、素気なく姿を消してしまうのであった。
後日、かの王室釣具商でそれが蚯蚓の別称であることを教えられた時、この洒落た蔑称を生んだ彼等の機知と、ヒースの草むらを澄まし顔して蚯蚓堀りに勤しむ紳士達の姿が、いちどきに頭を掠めた。紳士心得とは、なんともいじらしいものではないか、と。
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